いつも読ませていただいているこちらのブログのこの記事を読んでいろいろ考えさせられたのでちょっとまとめてみたいと思います。
特にこの部分。
自分と(障害のある)その人たちは分かれているわけではなく連続体としてゆるやかに繋がっている
(カッコ内は文脈がわかりやすいよう私がいれました。)
本当にそうだな、と思います。
うちのオフィスに車いすの女性がいるのですが、私が最初に彼女に会った10年前は普通に歩いていました。その何年後かに、多発性硬化症という難しい病気になったことが発覚し、少しづつ体の機能が衰えてきました。最初はつえを使って歩けていたのですが、次第に難しくなり、この3年くらいは車いすです。
まさに連続体としてゆるやかにつながっている。
まわりにいる私達は車からの出入りなどを手伝ったり、同じ方向に行くときは押したりしますが、基本的には何でも自分でやっていて、特別なことは何もしてません。困ったことがある場合(例えばものを落としてとれない、とか)はすぐ言ってくれるので別にみんな心配していないし。逆に私が忙しい時は手伝ってもらったり。
(そういえば、大学時代にも車いすの友達がいたなあ〜。ヨシくん元気かな〜。)
教育の取り組み方として、まず啓蒙する、というのは王道なのかもしれませんが、スズコさんが懸念されるように線引きになってしまうのは残念だな、と思います。
あからさまな障害がなくても、弱者は存在します。
それは、食が細くて給食が食べきれないAさんだったり、かけっこが遅いBくんだったり、漢字がどうしても覚えられないCさんだったり。
そういう時、余分に食べてあげられるDさんだったり、応援してくれるEくんだったり、教えてくれるFさんがいるようなクラスは、車いすに乗った人がクラスメートになった時、適切な対応が取れるのではないか、なんて想像します。
なぜなら、その組織は一番の弱小メンバーを許容できる組織だから。
そしてその弱小メンバーは場面によって次々変わることがわかっているから。
でも正直、子供の多様性の許容度は大人にかかっている、と思います。
うちの子供が行く学校は、結構白人、黒人、ヒスパニックといろいろ混ざっているのですが、1年生の息子は人種のことは全然言いません。例えばこんな会話。
私:最近良く遊ぶイーサンってどんな子なの?
息子:すごく足が早くてマインクラフトが大好きでボブっていうお兄さんがいる。
っで、後日会ってみると、白人だったり黒人だったりミックスだったり。
私が夫に話すときはたいていこんな感じなので、
私:ケリーっていう黒人で去年結婚して今年双子を生んだ人がいて、、、
ちょっと反省。
でもこれは、おそらく彼の回りにいる先生が人種的なことを一切言わないから彼も言わないんだろうな、と想像してます。学校には車いすに乗っている子供もいるみたいだし。多様性に対して大人の許容度が高いから、子供の許容度も高くなる。
そしてこれからの時代、加速度的にいろいろなモノ、人、考え方がミックスされる中そこで柔軟に仲間を見つけていける人が強いだろうな、と想像しています。
だから私も時たま自分の多様性の許容度チェックしています。
そして本当に許容しているのか、という点を、家族のメンバーとして喜んで迎えられるか、という点に変換しています。
つまり、息子が将来結婚相手としてこんな人を連れてきた場合、私はそれを喜んで祝福できるか、ということです。
例えば:
- 人種が違う
- 言葉が通じない
- 目が見えないなど障害がある
- 男
- 女性へ性転換した男性
- 犯罪歴のある人
- お父さんがヤクザ
。。。3つくらいはきついかも。
(どれかは言えません!)
まだまだ修行が足りません。