今日も空が広い

アメリカの片田舎から思いつくままに…

逃げる?逃げない?

もうしばらく前ですが日経ビジネスオンライン読んでいて、いろいろ物議をかもし出している記事を発見。

「もう無理」と言い残して“逃げた45歳の本音 

http://business.nikkeibp.co.jp/fb/putfeedback.jsp?_PARTS_ID=FB01&VIEW=Y&REF=/article/manage/20110215/218446/

毎月毎月追い詰められすぎて、ある締め切り前日、ふっといなくなってしまった編集者の記事です。

このコメント欄が面白い。「危険を感じたらさっさと逃げろ!」派と「そう簡単に逃げちゃいかん!」派に真っ二つに分かれている気がします。おそらくこれまでの自分の経験、行動をベースにコメントしてるんでしょう。


私自身はいままで、はっきりくっきり「逃げた」と思って行動したことがないですし、そもそもそこまで追い詰められた記憶もないです。でもそれがどれだけ苦しいことかは想像ができる。

追い詰められる自分というのは、おそらく、自分でもそこまで追い詰められているという自覚がないんではないでしょうか。だから記憶が途切れる感じでふと気がつくと退社して帰宅していたとか、会社に行くつもりで電車に乗ってたのに、いつのまにか海辺にたってる、みたいな事が起きる。おそらくそれまで何度も何度も「もう嫌、もう無理」って危険信号を発していたんだと思うけど、それを「我慢」という名のもとで押し殺していた結果、自分の身体を自分でコントロールできなくなる、ということが起きるのだと思う。

内田樹先生もこのようにいっている。

「嫌う」回路をオフにするということは、コミュニケーション感受性をオフにするということであり、それは思っている以上にリスキーな選択である。環境から発信される無数のシグナルのうちから「恐れるべきもの」「厭うべきもの」をいちはやく感知することで、生物は生き延びているからである。その回路をみずから進んで機能停止にするということは、リスクにたいするセンサーを「捨てる」ということであり、生物学的には「自殺」に等しい。
「我慢する人」は、日々のコミュニケーションの中で行き来する非言語的シグナルの多くを受信できなくなる。

つまり社会的な行動が取れなくなってしまう。
おそらく我慢強い人が、こういう状況に陥りやすいんだと思う。
(わかった・・・私がこういう状態になったことがないのは、ぜんぜん我慢強くないからだ。)


でも何かを我慢してこつこつとやり続けることでしか、(またまた内田先生の言葉を使わしていただくと)「ブレークスルー」が訪れないということがある。(ブレークスルーとは、昨日までどうしてもできなかったことが今日できた!とか、今日始めてわかった!みたいな体験。)

たとえばスポーツ選手の監督は、選手を限界まで追い詰めてもうひとつ上のレベルまで引き上げるということをする。監督の手腕とは、どこまでレベルを上げられるか、挑戦させることができるか、ということだと思う。経営者も同じように思っているかもしれない。でも追い詰めすぎてつぶしてしまっては、元も子もない。本人にとっては、場合によって再起不能なほど弱ってしまう場合もあるし、経営者や監督からすればその人のポテンシャルや、費やしたエネルギーを考えると大きなロスだ。

耐えられる我慢と耐えられない我慢の見極めはどこか。


私にもよくわからない。

でもひとつ思うのは、やはりそれは自分にしかわからない、人にその判断を任せてはいけない、そう強く思います。 自分の身体に聞くしかない。そのためには日ごろから自分の身体との対話を忘れてはいけない、と思う。ちょっとした身体からの信号、なんか頭がだるい、とか、目の焦点が今日はずれてる、とか、今日は身体が軽い、とか、ちょっとした昨日と違う自分をひろう、そういったことからはじめるしかないんじゃないかと思う。


まず自分の身体と対話する、今の私はこれくらいしか言えない。